The rest of the fighting dog
――闘犬の安息――
「どうかしたのか?」
平坦な主の声にエリックは我に返った。今日は久しぶりに訪れた主に連れられ、町に出てレストランに入った所だった。出された料理を前に自分は呆けていたらしい。 「も、申し訳ありません!」
地面に跪いたまま深く頭を下げた。エリックは強制試合をさせられる剣闘士から引退した身分だったが、明日はエキシビションゲームに参加することになっていた。十勝に手のかかった花形戦士同士の試合と言うことで規模も大きい。盛り上げ役の前座とはいえ、わざわざ観に来てくれた主が気分転換にと連れ出してくれたのだった。 「今更緊張してるという訳ではないだろう。体調でも悪いのか?」
叱られるかとエリックは思わず身を竦めたが、主はエリックの様子を訝しがるだけだった。 「何でもありません!」
エリックは目の前に置かれていた、手付かずのままの料理に慌てて顔を突っ込んだ。だが一口二口飲み込んだ途端に吐き戻した。腹を抱えるように蹲り、顔から血の気が引いていた。 「――医者だ!」
主は同席していたアクトーレスに厳しく言い付けた。アクトーレスは店員に馬車を呼ぶように指示するとエリックを担ぎ上げて出入り口に向かう。連絡を受けた事務所から馬車はすぐにやってきた。されるがままのエリックを座席に放り込むと、アクトーレスは御者にポルタ・アルブスに急ぐよう告げた。
ポルタ・アルブスは〔白い門〕という名に相応しい、ローマ時代風の町並みに違わぬ花崗岩の美しい石造りの建物であった。だが一歩中に入ってみれば大都市の医療施設に引けを取らぬ最先端技術・設備の充実した病院だった。 「虫垂炎ですね」
キトンやトゥニカでなく化繊の白衣をまとった医師はここの外科部長だった。診察を終えると主に向かって言った。
「あとは血液検査待ちですが、この様子だと恐らく腹膜炎も起こしているかと。大分前から我慢してたんじゃないかな」 医師の言葉にアクトーレスが青くなった。 「申し訳ございません!」
犬の管理不行き届きを責められても文句は言えない。これを理由に重罪に処せられる可能性もある。 「お前のせいばかりではない。言わないコイツも悪い」
何のために口がついてるんだと主はエリックを叱責した。犬が喋ることを嫌う主人もいるが、エリックの主はそうではない。不在の間のヴィラでの出来事など、たわいもないことでも犬の話によく耳を傾けていた。 「なぜ不調だと言わなかった?」 「……申し訳……ありません……」 脂汗をかきながら呻き声を噛み殺すエリックはただそれだけを口にした。答えになって はいないが、今の状況でこれ以上問い詰めても真実は得られそうにない。 「……試合、が……」 診察台の上で唸りながら、エリックは小さく漏らした。 「試合? 明日のことか!? ――この馬鹿者!」 普段感情を顕にしない主が涼しげな目を見開き、声を荒げた。 「そんな調子で試合に出るつもりだったのか!」 「……戦場ではもっと痛い目にも遭いました」
鎮痛剤が効いてきたのか、エリックの意識が幾分はっきりとしてきた。怪我と病気を一緒にするなと、主はエリックの耳を引っ張る。だが腹の痛みのせいで効いていないらしい。主は面白くない。 「だったらお前は部下にも同じことを言うのか!」
主の言葉に、エリックはかつて何人もの人間を従える立場であったことを思いださせられる。 「治療はどうしますか? 手術なら腹開くことになりますけど」 「構わん! コイツは闘犬だ、観賞用じゃない。今更傷の一つや二つどうってことない。 腹かっ開いて盲腸の一つや二つ切ってしまえ!」
医師の暗に含んでいた意味が勘に障り、主はまくしたてた。ここでは怪我や病気の治療も主人の意思に委ねられる。当事者である犬の意思などは存在しないのだ。最もヴィラの犬はヴィラの財産であるし、個人所有の犬は飼い主が高い金を払って手に入れたものである。軽い病気の治療を拒否することはまずない。この主とてエリックの顔に傷が出来ようが手足を失おうが、捨てるつもりは毛頭なかった。 「切るのは一つで大丈夫ですよ、虫垂は二つもないんで」
見目麗しいパトリキの普段は見せない奇行に医師は笑いを噛み殺していた。答えは想像できていた。尋常ではない痛みを堪えて主に尽くそうとしていた犬だ。現役は引退したものの未だに人気の高い闘犬――主の自慢の犬。これ位の病気で捨てたら笑い者だ。
運ばれてきた血液検査の結果は想定通りの白血球の異常数値を示していた。医師はスタッフに手術の準備を指示する。 「でも――」 まだ口篭るエリックを主は真上から見据えた。
「そのまま試合に出た所で勝てると言うのか?『病気の犬を試合に出して無様に負けた間抜けな飼い主』と世間の連中は言うだろう。お前は私に恥をかかせるつもりか」 「そんなつもりは……」 更なる畳みかけにエリックは脂汗をかきながら頭を持ち上げた。主はチラリと目の端で 見遣った。何か企んでいるなと思ったのは医師とアクトーレス。
「私は犬に信用されない駄目な飼い主なんだな……お前を飼う資格はないのか。だったら誰かお前を可愛がってくれる人を探そう――」 「ご主人様!」 悲愴な面持ちの主に動けないはずのエリックがしがみつく。 お許し下さい、そんなこと言わないで下さいと、腹痛からではない涙を流して泣き叫 ぶ。 医師とアクトーレスは懸命に笑いを堪える。知らぬはエリックばかり。この主はとんだ
役者だ。端から見れば安い三文芝居だが、エリックには涙を禁じえないスペタクルな葛藤劇となっている。 「――じゃあ私の言う通りに手術を受けるな?」 「はい、ご主人様」
優しく微笑む主にエリックはひしと抱き付いた。エリックの滑らかな髪を撫でながら、主の口角が美しい相貌に似つかわしくなく卑しく持ち上がった。だが胸の中のエリックには見えない。
「主従愛が確認できたのならよろしいでしょうか?」
半ば呆れた様子で傍観していた医師が声をかけた。口には出さないが『付き合っていたら陽が暮れる』と顔に大きく書いてある。 「ああ、済まない。宜しく頼む」
主はエリックから身を離した。エリックを寝かして離れる間際にくちづけを落とす。何気ない仕草一つ一つが絵になる。エリックは瞳を潤ませた。
「――アッペなんて何年振りかな……」 処置室へ運ばれて行く最中、医師の独り言を聞いたエリックが顔を青くした。 「ご、ご主人様――!」 「大丈夫大丈夫」
声を上げるエリックに主は笑いを堪えながら手を振る。ここではプレイによって生じた様々な外傷や特異的な形成手術などが多い。巷でみる基本的な病気の方が珍しいようだ。 「あー、研修時代以来か」 エリックの不安げな叫びなど気にせず、医師は独り言を続ける。 「うわ――!」 エリックは試合でも見せたことのないような表情で子供のように泣き叫ぶ。 「うるさい。ついでに胸にシリコン入れてもいいんだぞ」 冷ややかに発せられた主の一言にエリックは身を硬くした。
剣闘士犬になった時点で止められたが、かつて女性ホルモンの投与で胸を膨らませられた過去がトラウマとなったおり、それがフィードバックする。 「え? 豊胸手術もします?」 主の言葉に追憶から戻ってきた医師が顔を向けた。その態度にエリックの顔が強張る。 「ご主人様――!!」 逃げ出さんばかりに暴れだすエリックに「嘘だよ」と、主は目を細める。
この美麗のパトリキの機嫌だけは損ねてはいけないと、黙って様子を見ていたアクトーレスは肝に銘じた。同時に、罪を問われずに済んだ今回の幸運を噛みしめる。
手術が終ったとアクトーレスから連絡が来たのは、主がドムス・アウレアで寛いでいる頃だった。虫垂炎の手術にしては随分時間がかかったように思う。頑張った可愛い犬の顔を見に行かねばと主はポルタ・アルブスへと向かう。 「様子はどうだい?」
病室にやって来た主の姿を認めると、アクトーレスは頭を下げた。ベッドの上には白いリネンに包まれるようにエリックが横たわっている。 「一度麻酔が切れてまた眠った所です」 「何だ、急ぐこともなかったか」 道すがら買った色鮮やかな花束をアクトーレスに渡し、主はつまらなそうに漏らした。
起こしましょうか? と、花瓶に花を生けながら尋ねるアクトーレスに「構わん」と主は首を振った。壁際に置かれていた椅子を引き寄せるとエリックの枕元に座る。 「……ご主人……さま……?」 主の声にエリックが瞼を持ち上げた。 「そうだよ」 主はエリックの頬を優しく撫でた。 「ご主人様、俺……うわ――!」
飛び起きようとするエリックをアクトーレスが押さえ付けた。まだ傷が塞がっていない。エリックは刺された点滴のチューブが引っ張られるのも構わず、腕を派手に動かして体をまさぐる。パニックを起こしているようだ。 「麻酔の後遺症か?」 「分かりません!」
暴れるエリックを抑えながらアクトーレスはコールボタンを押した。程なくして看護スタッフが駆けつけた。 「――ご主人様!」 「ここにいる、どうしたエリック?」 真上から覗き込んできた主の顔を捉えると、エリックの瞳から狂気の色が薄らいだ。 「俺……何されたんですか!?」 「虫垂炎の手術だろうが」 何を今更。麻酔で記憶が飛んだのかと主は思った。
「虫垂炎の手術なら腰椎麻酔でしょ!? 俺意識がなかった……全麻かけて何かしたんですか!?」
エリックは泣きそうな顔をしていたが、主は笑いがこみ上げてきた。しきりに体を探っていた理由が分かった。胸を触って変化がないことに少しは安心したものの、無意識の間に見えない何かをされたのか不安だったのだ。その原因は手術前の話だろう。 「してないよ。胸も平らだろ?」
エリックのはだけた病衣の隙間から主は白い手を差し入れ、肌理の細かい柔らかな皮膚を撫でる。さ迷わせた指先が胸の色付いた果実を摘み上げると、エリックは甘い声を上げて頬を染めた。
「鎮静剤いらないようですね」 後からやってきた医師が声をかけた。 「手術終ったばかりなんで、プレイは傷が塞がってからにして下さい」
天下のパトリキ相手に不敬と取られても仕方のない物言いだったが、押っ取り刀で駆け付けた目の前で痴態が繰り広げられていたら嫌味の一つも言いたくなる。だが主は気にした様子もなかった。
「うちの犬が不安がっているので説明願えますか? 普通なら腰椎麻酔の虫垂炎の手術で全身麻酔かけた理由を。何か悪戯しました?」
口調は優しいものの主の単刀直入な言葉に、変わり者の医師も「パトリキの飼い犬に勝手に悪戯出来るほど豪胆じゃないですよ」と苦笑する。
「切開じゃなくて腹腔鏡を使ったんですよ。傷も小さく済むし負担も小さいから回復も早い。ただこれは全身麻酔が必要なんです。ガスでお腹を膨らませるから意識があると窒息する場合があるんで」
やっぱり腹膜炎も起こしてましたよと医師は呑気に説明する。主は無言のまま、安心した様子のエリックの方へ関心を移す。
『主人に事前説明しないままはまずいんじゃないですか? 腹腔鏡手術って難しいんでしょう?』 アクトーレスがこっそりと医師に耳打ちした。 「だって使いたかったんだもん」
医師は声を潜めることなく言い切った。機材のこと思い出したのパトリキが帰った後だったし〜と、二の句は鼻歌混じりだった。その言葉にアクトーレスの方が身を凍らせる。恐る恐る主の方を伺ってみたが、もう関心がないらしく振り向きもしない。とばっちりの火の粉が降りかからないうちに一刻も早くこの場を去りたい、アクトーレスは切実に願った。 「そろそろ犬を寝かせた方がいいですね先生?」
アクトーレスの心中を察した看護スタッフが医師に促した。じきに消灯時間になる。注目されなくなった医師もそれに同調し、さっさとドアに向かった。 「ご主人様、我々もそろそろ……」
そろそろとアクトーレスがベッドに近付くと主は「先に帰ってろ」と小さく命じた。見れば不安げなエリックが主の袖を掴んでいる。 一礼するとアクトーレスは部屋を出た。駆け出したい衝動は何とか抑えられた。
「お前は私を帰さないつもりか?」 「すみません……」
主の言葉にエリックは身を縮める。けれどそれに反し、服の端を掴む指先に力がこもる。 「眠くないのか?」 「はい……」 本当は眠くない訳ではなかった。ただエリックは置いて行かれるのが不安だったのだ。 「主を困らせるとはしょうのない犬だ」
だがそう言いつつも主はエリックを咎めることなく、小さく嘆息すると、片手を取られて不自由な体を捻ってカーテンを開けた。メイン照明の落ちた暗い部屋に月光が降り注ぐ。明日は満月だ。 「じゃあ少し話をしよう。そうだな……私のことを一つ教えよう」 「はい」
主のことと聞いてエリックの目が輝いた。ぼんやりと漂っていた気だるい雰囲気が霧散した。振る話題を間違えたかと主は苦笑する。 「私の名前は知っているな」 エリックは頷く。一言も聞き漏らすまいと、エリックは主の甘い声に耳をそばだてる。
「実は普段は使わないもう一つの名前がある。偽名ではない。ミドルネームだ。コナーと言う」 コナー――主のもう一つの名前をエリックは胸の内で復唱する。 「別に聖人の名前でも先祖に縁の名前でもない。何で付けられたのかも良く分からない」 connor――主の口にする綴りをしっかりと焼き付ける。 「別に珍しい名前ではない。国によっては名前になったり姓になったりするが」 どこか親しみのある、それでいて美しい響きの名前だとエリックは思った。
「だがコナーとはケルト語で『猟犬を愛する者』という意味があるんだ。犬違いだが私に相応しいとは思わないか?」 「……はい……思います――」 それまで黙って主の話を聞いていたエリックが静かに口を開いた。 ご主人様は犬を――俺を愛してくれますか? そんな思いが頭に浮かんだが、すぐに消える。主を疑ってはいけない。 「ここで話したのはお前だけだから、エリック、秘密だよ」 主は形の良い唇に立てた指を一本押し当てると片目を閉じた。 「さあ、お休み」 主の言葉にエリックは瞳を閉じた。
名前、綴り、意味、秘密……それらはエリックにとって聖なる言葉となった。祈りにも似た思いで何度も巡らせる。細胞の一つ一つにまで焼き付くように。やがてそれらは渦を巻いてエリックを飲み込む。飲み込みながら体に染み入る。 エリックはゆるりと眠りの淵に沈んでいった。だけどもう不安はない。
猛き闘犬に安息が訪れた――
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